akaritaguchi

25歳。インスタグラムは体裁でツイッターは軽率です。語尾がバラバラですみません

DOUBLIVINGの始動、リリース、初ライブ並びにLuvNeed Recordsの立ち上げに寄せて

2023年4月29日 世間が初夏の大型連休に浮き足立つ雨の東京

正直なところ ヨシダレオくんが新たな形で創作物を世に出してくれることへの喜びとSULLIVAN's FUN CLUBというバンドがあるのにも関わらず個人で活動するという事実へのどうしようもない寂しさが拮抗していました

ただ 矢印に刃向かわずに歩いている気がして少しお酒を飲んでいた私は人の前でウヨウヨ泣いてしまったよ

 

その後 約1ヶ月が経ちリリースされた『天才の君へ』あまりにもSULLIVAN's FUN CLUBの楽曲との“イメージ”が違っていて ただそれは決して悪い意味ではなくてヨシダレオという個人名ではなくDOUBLIVINGという新たな名義を使用された意図をどこからか感じました

ポップな音と少し個性的な言葉選び サビに向けて厚みが増して盛り上がる明るさに思わず少し嬉しくなってしまう

その中でも以下の歌詞が心に綺麗に収まってしまって涙するくらい言葉に堕とされちゃった

 

イマジネーションこそぼくの取り柄なもんで、

どうでもいいとこで涙溜めるもんね!

君だけがきっとわかってくれんだろうな

わかったふりでもヨシ!

それこそが希望なんだ

 

リリースから約1週間が経った6月7日のこと上記の詞について 「言い手も受け手もヨシダレオくんなのに それと同時に言い手も受け手も私なの 分かる?」と友人に迫ってしまって

この意味を汲んでくれる人は限られていると思うけどやっぱり間違えてないかもな なんて思います

ファンタジーのような喜びも哀しみも感じさせるのにどこかで必ず実生活に結びついていてストンと体内に落ちる音楽 すごく心地いいな

 

天才のリリースからまた1ヶ月が経った頃『P.S. I LOVE U』を享受しました

語弊があるかもしれないけれど メロもサビ前のギターもSULLIVAN's FUN CLUBの音楽をすきな人にハマる気がした それでもDOUBLIVINGからリリースされた意味が“声”から伝わってくるな なんて考えたりしていて

サリバンの曲の中にも優しさとか温かみを感じることは幾つもあるんだけれど PSではそれがまた一段階違うところにあるように感じました

自分の気持ちさえ分からなくなることって何度もあって それでもギリギリで生活を諦めないのは 元から据えられたにんげんの「こころ」があり その揺れ動きを感じ取るからなのかな と脳を燻らせていく 詞や曲も去ることながらそういった思考を促すのが今回の場合は声なのかな なんて 個人的見解です

 

それから数日後 DOUBLIVINGとしての初めてのライブを札幌と東京で観ることができた 意味もなく私が緊張しちゃったりなんかしたけどそんな必要はなかったかもね

リリース済みの2曲を含めて全6曲 すべて新譜という今考えても意味が分からない構成でのライブにずっとニコニコしちゃった

梅雨がないと聞いていたのに強く降る雨の札幌で聴いたメリィの数字の意味をずっと考えてしまう とわいらいとのカッティングもPSのどこまでも続いていくアウトロも2回じゃ足りない と贅沢を思ってしまいます

キラキラとした輝きとそれに付随する影があったあの場にいられたことを心の底から誇りに思うし 今でも夢のようだったとふわふわしてしまうな

 

5月31日にApple Musicの左端に見えた LuvNeed Recordsの意味を知るのは少しだけ後だったけれど幾つかのタイミングで意思や意味を伝えてくれていて

どうしても脳の端にあった4月の不安が杞憂だったことに少し笑ってしまいました

昨年のワンマンで聞いた言葉を借りると 続けることって恐らく大変に難しくて 信じることが苦手な私はどうしたって怖くなることがあるけど そんなことよりも選んだ道をこの先も見せてほしいな なんて珍しく楽観視したんだ

まだ少し心臓がヒリヒリと震えるけど いつしか安心させてくれる場所にもなっていたのかもな と思います

毎々同じ表現しか出来ないけれど いつもありがとうございます これからもずっとずっと ありがとう

戒める

感情はいつだって形容し難いもので 弱さ故に自分の中に収めて置くことができない 写真や文章で表すことへと逃げるけれどそこにも力は無い

私の音楽は娯楽だからそれを生活に転化してはいけない あくまでも構成物でなくてはならない

他人の考えていることが分からないのは尤もであり自身を正当化してそこに在ろうとすべきではない

理解しきることは出来ないのに理解しようとしてしまう そしてそれで擦り切れる

なんだか指の先の毛細血管が叫んでいるような異変を感じ取る それを放置することに慣れて且つ距離を保って付き合っていく

そんなことが出来るようになればいいのに

焦がれて

解散してしまうのか気が気でなくて りょーめーくんが死んでしまうのかずっとずっと危なっかしくて 見ているだけで聞いているだけで心をきゅうと締め付けてくる爆弾ジョニー

LOVEをリリースしてくれて ツアーをしてくれて これ以上のものが無いかもしれないと悩みながら生み出した新曲も聞かせてくれてFEVERで揺れた

あの2時間だけは脳の端から端までを生きててよかったという思考だけで埋めることが出来たよ

掴みたい 触れていたい 消えそうな火を風雨から防ぐようで在りたい

歳を経るごとに目指すものは変わるし変えなければならない いつだって明日を保障してくれないけれどそんなことをずっと教えてくれるのは偉大なるバンドマン

わたしみたいに物事をクヨクヨと隅っこまで考えてしまう人は煙草を吸って音楽を聞こうね 取り敢えず 何となく生きれます

祈り

1人ではなく独りを実感すると人は悲しくなる 悲しみの中では泣くことはできなくて感情を整理できていない時に涙が溢れる と考えていた

全ての理屈を理解して噛み砕いて論理付けた先にこそ正解は宿り ただ人は感情が先行するから中々答えを出せていない と思っていた

何を求めているのか辿り着く道があるのか分からなくなってしまった

そんな時に人は涙を流すし何かに縋りたくなる そんなことを繰り返して生活に染まっている

明日が来ることが当たり前じゃない人たちばかりがいた9月17日の新宿でスッと心が安らいだ

昨夜からぽっかりと空いてしまった脳を埋めるようにパンタ・レイを聞いてやっと泣いた 万物流転を示すその音楽により皮肉が絡み合って身動きが取れない

掃除が行き届いていない部屋 溜まった洗濯物や洗い物 居心地が悪そうに咲く花 待ってくれない季節の周回

生きていることが分かって嬉しくなる

代替できないものがあるから生きてください 耐えられなければ『あまつゆのバラード』を流すから

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ありがとう

菅田くんを映画俳優にした『共喰い』。それをつくり上げた青山監督。私にとって脳にも身体にも残るような大切な作品で、これからも忘れないし決して忘れられない。あまりにも早すぎる。見たくないけど理解しなければならない事柄をこれからも投影して欲しかった。ご冥福をお祈りします。

 

昔は夕方のニュースで訃報が流れても知らない人たちの話題ばかりであったのに いつしかすきな人の名前が挙がることが多くなった。

 

週末に聞いたツアーファイナルでのアヤノちゃんの発言がお臍のあたりをくすぐる。東北での地震で仙台公演が延期になったからか いつもより必死に言葉を紡ぐアヤノちゃんが愛おしかった。いつもの通り『光の方へ』で涙がこぼれた。明日は来るから、みんな生きてね。理由なんてなんでもいいし無くてもいいから生きようね。

 

『ちょっと思い出しただけ』をみたよ〜〜

愛という言葉は軽々しく使えるからこそ恐れる人もいるけど私はやっぱり他人に愛を伝えたいし愛してるよってすぐに口にしてしまう。それはなんだか軽薄なようで負い目を感じる時もあって。「愛は逃げ道」と言ったのが自分の行動に対して間違っていないことのようにも言ってくれた気がして ほんのり心が潤った

 

誰しもの日々の生活に寄り添うような映画 あまり得意ではないのだけどなんでかこの映画はすきだったな

それは多分 当人たちによる全てを説明するようなナレーションが入らない為に 鑑賞者に想像を預けてくれるような余白があるからで

でも真実とは違う明確な事実が見えてきて 頭が痛くなることもない ファンタジーではない時間の逆行感を確認することができる

しかも今の今(制作時の2021年)から6年間を遡り切り取っている。将来教科書にも載るようなこの世界の大転換期をすくいとっているからこそその心意気に共感したくなるんだろうな

個人的にこういう類の映画を観た後に感じる わたしたちの日常に近いはずなのに置いてけぼりにされる気持ち悪さが無くて帰路につく歩を進めるのが少しもどかしく 上手な歩き方を知らない幼児のようだった

恋愛以外でも ちょっと思い出してしまうようなことは沢山あって それのほとんどが現在に意味を成していないように感じてしまう。過去があるから今があると某人は言い わたしはそれを鼻で笑ってしまうような冷めた人間だけど ちょっとその人の言うことを信じても良いな なんて考えたりした

池松壮亮が「あの頃を振り返るようなこういう映画は他にも沢山あるけどそれとどう差別化を図れるかと常に考えていた」と言っていたけれど正にそれを証明できていたのではないかと思う

ただ少し カレンダーの使い方とかカメラの回し方に違和感があって 作り手の伝えたいことはもっとあったように感じて

深くをキャッチ出来ない自分の未熟さに悔しさが残るからもう一度見たいななんて思ったり

 

高円寺も横浜も夏もクリープハイプ

割と多数の人間が通ってきた思い出の道で 各々がそれぞれを思い出してしまうんだろうな なんて数時間経つとやっと客観視できたりする

タクシーだって そこには出会いがあってすぐに別れがあるからなんだか浪漫があるよね。タクシーにそれぞれの人生を重ねるような比喩をちょくちょく見かけるけどわたしはその表現がすきだ

 

照生が現在の生業に覚悟を決めた2年前の表情がいちばん印象的だったな グッときてほろっと心が剥がれたように感じられた

 

葉ちゃんは強くて優しくて自分の気持ちをすぐ言葉に出しちゃって わたしにはできないことを息をするようにするもんだからすごくかっこよくて

こんな人にわたしだってなりたかったなと少し悔しくなった

 

わたしは今日が誕生日だったとしても他人から聞かれたら「昨日です」ってつい嘘をついてしまうようなタイプの人間だから

 

振り返る進行をするからどんなラストにするんだろうと思ったけど具合の悪い終わり方はしていなくて安心した

舞台挨拶で池松壮亮が何度も「夜明け」という言葉を口にしていたけど毎年の誕生日にもラストシーンにもそこが印象的に使われていていい

何年か経って照生くんたちくらいの年齢になったらもう一度見たい

 

わたしの言葉なんかでは表せないけれどキラキラと埃っぽさのどちらをも併せ持つ素敵な映画だと思う

 

165,208時間

ここに書き綴るのが恥ずかしい要素を持ちあわせている為に早死だろうと人から言われるのだけれど、何だかんだ80歳まで生きてしまうとして残り495,624時間。この内1/3は眠っていて1/3は働いていると仮定すると自分の意思により行動するのは165,208時間。

計算が面倒で閏日無視しているのに なが〜〜!

溢れるような音楽を掴みたい。映画にも本にも触れていたいしコントや漫才もたくさん感じたい。深夜ラジオには浸からなければならないし香りを聞きたい。花から温もりをいただいて西洋絵画と踊りたい。

歳を重ねるにつれて当たり前に増えてきた思い出がある為に昨年までは嫌いだったはずの季節も天気も今年は あれなんだかいいかもな なんて感じたりする。どうしようもなく愛おしい〜くるおしい〜と思ったりする。

母が40歳になった頃 自転車を漕ぐ背中を追いながら、この人は人生あと半分か なんて考えていた。

当時は羨ましいでも寂しいでもなく ただ漠然と大きな数字に圧倒されていただけで無感情であった訳だけれど今では何だかドブみたいな見かけの心中である。

責任を持たない愛は罪だろうか。影がない光みたいだ。